『サティと庭とデカルトと』を読み終えました。
まず、本を読み終わった直後に感じたことは
どうしてこうなった…?
の一言に尽きる。
今回ほぼネタバレなしの感想になります。
素材は良かった
主人公・莉央が住む借り家、小さな日本庭園、神崎夫人、ロシアンブルーのサティ、カルチャースクールの同僚、生徒たち、そして哲学。
一つ一つの要素はそれなりに良かったし、掘り下げる余地があるのも読んでてワクワクした部分だ。
また、莉央が作中の様々な出来事に対して、哲学者の言葉、考え方を用いて思考するのはなかなか特徴的で悪くないと思った。
だからこそ、時折ちょっと面倒くささを感じながらもそれが主人公・莉央の味なのだと信じ込み、中盤くらいまではそれなりに楽しめていた。
あの思わせぶりな猫のサティとは何だったのか
問題は猫のサティがやってきてからだ。
莉央の家で近所の水野夫婦の猫を預かることになるのだが、それほどの一大イベントを起こしておきながら、その後ほとんど猫は関わらない。最後の方で莉央がサティを見ながら哲学するだけ。この作品は哲学を中心にしているから、猫から哲学の話に移行するのは問題ない。理解できる。
でもわざわざ作品中に猫を出して、ひとつ屋根の下で暮らすというのに、(読者は猫との暮らしで莉央がどう変化していくのか楽しみにしているのに)特に何もない。結構ながっかりポイントだった。
猫のサティに限らず、この物語には回収されなかった伏線的なものが多い。多すぎる。
いや、もしかしたら作者は伏線としてそれぞれの要素を配置したのではなく、単純に哲学を引き出すためだけに配置したのかもしれない…
後半の消化不良っぷりが凄まじい
物語を作ろうとして、それなりにこだわったジオラマを作っては見たが、いざ人形遊びを始めたら途中で飽きてきてしまって急速に終わらせたような、「最後まで頑張れよ…」と言いたくなるようなラストにはやはり不満が残る。
後半は特に、小説の中に哲学を落とし込んだというよりは、哲学を語りたいがために小説を作ったような感じになってしまっていて、『サティと庭とデカルトと』の人形劇感が極めて増してしまっていたのも残念だった。たとえば、それまで哲学者の名前はでてきても、(1〇〇〇〜1〇〇〇年)のような、教科書のような表記はなかったのに、最後の最後でそれが出てきた。この表記によって、今まで読んできたのは小説というよりは哲学書だった感がものすごく強められてしまったのだ。
序盤の勢いとワクワク感、そして唐突な後半の失速具合は笑えてくるレベルなのかもしれない。それほど衝撃的だった。(いい意味とは言えないかも)
前半は本当に、ちゃんと楽しめていたので、それだけ後半のがっかり感が悲しかった。
読み終わった瞬間、そして続きがないとわかった瞬間の「あれ?」という気持ちが尽きなかった。
せっかくの素敵なジオラマ、ほかの人が人形劇をしていたら良い作品になっていたかもしれない…なんて、野暮だけど。
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