てれひこ屋

日記&雑記帳。日常で感じたこと、好きなゲームのこと、いいと思った音楽のこと、自分のことを入れて煮詰めるための坩堝です。

【節分】自分が"鬼"ではないとは言い切れない

 


鬼面(赤) 鬼のお面 節分 赤鬼 豆まき マスク 鬼退治 民芸品

 

 

もうすぐ節分なので、それっぽい話でも。

 

 

去年か一昨年かの節分の日のニュースで、あるお寺さんの映像を見ました。

イベントということで多くの参拝客が集まり、節分らしく赤鬼青鬼の姿もありました。よくある風景ですね。

 

しかし豆まきが始まると、聞き慣れた掛け声とは違うものが聞こえてきました。

 

そのお寺さんでは

「福は内、鬼も内」

という掛け声で豆をまいていたのです。

 

鬼も内。初めて聞きました。

子供がふざけて「鬼も内」などと言うことはあるでしょうが、大真面目に鬼を迎え入れようとする掛け声は初めてです。意表を突かれたような気持になりました。

 

「鬼も内」という言葉から、鬼に対しても「入れ入れ!」と招き入れることができるほどの器の大きさや慈悲の深さ、思いやりを感じます。

また、鬼をも迎え入れてくれるところがあるうちは、自分も安心して生きていられるな、とも思いました。

 

鬼ですら憐れみを以って家へ入れてくれる人がいるのだから、私のようなしょうもない人間でも拾ってくれる神様がどこかに一人くらいはいるかもしれないという希望が持てるわけです。

 

「自分が鬼(嫌われ者や理解され難い者)である筈が無い」と思っていても、いつどのような経緯で鬼になってしまうかわかりません。

特に今、物事の価値観や考え方が大きく変わっています。自分の中の当たり前が、誰かを傷つけるような思想になっている可能性だってあります。また気づかないうちに少数派になってしまい、味方を得られない状況に陥るかもしれません。

 

そんな世の中で、自分がいつでも他人に受け入れられる存在でいられるか、というと、そういうわけには行かないと思います

だからこそ、鬼ですら招き入れてくれるような懐の深さや、寂しい思いをしているかもしれない鬼を想像して受け入れてあげようとする思いやりを持っている人が必要です。慈悲を持つ人に救われる人が必ずいます。

そして「鬼ですら受け入れよう」という気持ちを持っている人が増えると良いなと思います。明日は我が身でもあるのですから。

 

 

 

話は変わりますが、歎異抄の有名な言葉に「善人ですら救われるのだから、悪人はなお救われる」というものがあります。

阿弥陀様の救済の対象は悪人なのだから、悪人が救われるのが当たり前で、善人であっても救われるということですね。

この場合の善人・悪人というのは、私たちの社会の規律の範疇でいう善人・悪人とは少し違います。欲や煩悩を持つ人間=悪人 と解釈すると簡単だと思います。つまり仏様からしてみれば、人間はすべて悪なのです。 これに関して詳しく齟齬なく書こうとすると難しいし、そもそも説明できる自信がありません(笑) ぜひ歎異抄をお読みください。面白いですよ!

 

基本的に人というのは生まれた時から悪人だという考え方があります。人は欲望や煩悩の中に生きているのですから、当たり前といえば当たり前ですよね。その中で、修行や学問といった自力での救済を目指し、善行を積んだものが善人へと到れるわけです。

自分が善人であると信じて疑わない人よりも、自分自身と向き合うことで己が悪であると気づき、一心に仏様を信じる人こそが阿弥陀様の救済の対象になります

でも、阿弥陀様は「すべての人を救済する」という約束をされたので、自分自身が善人であると思っている人でももちろん救済されます。

だから、「善人ですら救われるのだから、悪人はなお救われる」。善人であっても救われるのだから、悪人であれば当然救済されるのです。

 

 

鬼を受け入れる人のことを考えていたら、なんだか阿弥陀様みたいだな―って思って歎異抄の話を引っ張ってきました。

まあ、歎異抄で言う悪人というのは修行も学問もできない、自力での救済が難しい者のことであって、そんな弱い立場の者でも一心に念仏を唱え、仏にすべてを委ねることで救済されますよ、っていう話なんですよね。だから、悪いことをしていいという話ではないんですけど。

今生でも鬼すら受け入れるほどの救いがある可能性があり、その果てには阿弥陀様の救済があると思えば、なんとなく安心して生きられる気がしてきますよね。

 

阿弥陀様の救済と人のかける情けとでは何もかも違うものですし、慈悲の心で招き入れた鬼が鬼滅の刃みたいな人食い鬼だったら困りますけどね(笑)

余程強い人じゃないと、人食い鬼のような悪鬼を招き入れることはできませんね。

でも節分で追い払う鬼が厄とか災いだとするなら、それすら受け入れるという気概はやはりなかなかのものに思います。

「鬼は内」といえる人の懐の深さと強さ。自分もそういう人になりたいです。

 

 

 

 

今回、歎異抄から話を広げた部分がありました。

歎異抄って新聞の広告にも載っているので、なんだか胡散臭いもののように感じられることもありますよね(笑)

でも、読んでみるとものすごく面白いです。読みやすくように現代語訳されたものや、解説がついているものが多いはずです。自分に合ったものを購入されるのがいいと思います。

 

歎異抄を読んでいたら、親鸞聖人が「自分のような罪深い存在であっても救ってくださる阿弥陀様のなんとありがたいことか」というようなことおっしゃった、と書いてあり、私が鬼を受け入れているお寺さんに感じたものと似ていたので、親鸞聖人への親近感のようなものが湧いてしまいました(笑)

親鸞聖人の思いは本当に切実なものであり、きっと私の考えはちっぽけなものでしょうから。

 

私が読んだものと同じものを下に貼っておきます。

現代語訳が本当に読みやすいですし、解説も良かったです。原文をそのまま載せてくださっているのも素敵なポイントだと思います。

興味のある方はぜひ読んでみてください。

 

Amazonのアソシエイトとして、当メディアは適格販売により収入を得ています。