これは初夏の夜のパニックホラーである。
Nさんとのクイズバトルを終え、さて寝ようかと思ったその時。エアコンから妙な音が聞こえた。
「カサカサ」とも「パキパキ」とも、「カリカリ」とも表現しがたい、かなり奇妙な音だ。
音は不定期に聴こえてくる。
継続して聞こえる時間もまちまち。聞こえたと思うと静かになり、しばらくするとまた聞こえてくるのである。
エアコンは動かしていない。この日はまったく使わずに過ごしている。
これは…。
ぜったい"アレ"じゃんね…。
"アレ"とか、あの"アレ"とか、きっとそうだ…
そうに違いない……!
これはもう、目で見なくてもわかる。本能が訴えかけている。
ヤバい と。
しかし時刻はすでに23時を過ぎている。よい子は寝る時間だ。
この時間から行動を起こす?無理無理。もしエアコンに刺激を与え、"アレ"や、そうでなくてもきっと不潔であろう生命体なんかが飛び出しでもすれば、私はもう今晩眠ることなど叶わないだろう。
時折グロテスクな音を立てるエアコンをキッと睨みつけながら、私は得体のしれない生命体の気配におびえ、それでも考えるのをやめなかった。
もし音の正体が不潔な生命体だったとしよう。
私の部屋には食べ物や水などは置いていない。さらにここ最近室内で"アレ"などはみかけていない。きっと室内機に入り込んだのではなく、室外機から何らかのルートにより室内機周辺までやってきたに違いない。
そうなればおそらく、排水ホースからの侵入…。
たしか、エアコンの設定温度を下げ排水を促すことでホース内を洗い流せば、悪臭対策になるという話を聞いたことがある。それなら排水ホース内で蠢く"アレ"たちを一掃できるかもしれない。
つまり今私ができることは、エアコンをつけて冷房をガンガンにかけること……?
いやいやいや無理無理無理
もうそこにいるんだぞ!?得体の知れない存在が!!すぐそこに!!
今エアコンを付けようものなら、奴らが一斉に室内に飛び出てくる可能性は捨てきれないだろう……!!
音はすれども、姿は見えない。
そう、また私はエアコンの中に潜む魔物の影さえ見ていない。
奴ら、ホース中にはいるのだろうが、室内を跋扈するには至っていないのだ。
もし奴らがそのまま、不潔で居心地が良いのであろう排水ホース内にとどまってさえいれば、私は恐怖におびえながらもなんとか眠りにつくことができる。
エアコンを凝視し続け、ついに時刻は12時を回ろうとしていた。
時折聞こえてくる気味の悪い音の割に、"アレ"が落ちてくることはない。
そうだ。部屋の中を"アレ"が這いまわろうが飛び回ろうが、気づきさえしなければいいのではなかろうか。
なんとか眠りにつくことさえできれば。
私はエアコンを睨みつけるのをようやくやめ、思い切って電気を消し、横になることにした。
ハッキリ言ってめちゃくちゃ怖かった。
起きていようが寝ていようが、エアコンから気持ちの悪い異音が聞えてくることに変わりはなかったし、目をつぶって我慢しても、やはり音が気になるのだ。
たまに音が遠くからどんどん近づいてくるような聞こえることもあり、否が応でも「いる」ことが分かってしまう。本当に怖い。
恐怖のあまり、夜更けに一度電気をつけ、エアコン周りを確認した。
やはり何もない。たまに音が聞こえてくるものの、一向に部屋に進出してくる感じはない。
時刻は午前1時を過ぎている……。
結局、その晩は暗がりの中からたまに聞こえてくる異音に緊張しながら寝付くことになった。
翌朝。
爽やかな朝。なんとか眠れたらしい。
エアコンからは何の音もしない。
あれは何だったのだろう。と、思いつつ、エアコンの送風口をじっと見る。特に見た目に異変はない。寝不足の気怠さを全身で感じながら、身支度を始めた。
日中。
昨晩から夜中にかけての地獄のような時間を二度と味わわなくていいように、ついにエアコンと向き合うことにした。明るい昼の時間ならば、人間サイドに幾分かアドバンテージがあるだろう。たとえ不潔な生命体共がエアコンから飛び出ようと、戦う覚悟はできている。わが部屋の平穏のため、徹底して追い払わねばならないのだ!
まずはエアコンから気持ちの悪い音がしないのを確認。冷房、ON。室内温度設定は最低に。
これで排水ホースからドンドコ水が出ていき、恐怖の"アレ"などは外に流されていくはず…。そんな簡単な話なのだろうか…と半信半疑になりつつ、今できることをしなければ、という一心で冷房をガンガンにかけていく。
そしてエアコンを付けてすぐのこと……。
……臭い。
そう、臭い。エアコンからの風が臭い。
水草のびっしり生えたドブのような、苔むした日陰のような、青臭さ。
気が付くとその臭いは部屋に充満し、初夏の暑さと水気を含んだ青臭さに包まれ、おぞましい空間になっていた。
急いで窓を開けて換気をすると、気持ちの悪い臭い10分もしないうちに解消されていった。室内も随分冷えて、爽やかである。
仕上げにエアコンの送風口を"アレ"などの忌避効果のあるアロマ水で拭き、掃除をした。余裕がでてきたので思い切ってフィルターなどを見てみたが、そこにもなんの形跡も見られなかった。
エアコンからの風からは異臭が取り除かれ、アロマの効果もあって随分爽快になった。
その晩。
静かな部屋の中、私は昨夜のようにエアコンを睨みつけていた。
異音も異臭もしない。何の変哲もない、白いエアコン。
たまに車の通る音が外から聞こえる以外は何の音もしないくらい、静かな部屋。
意を決してエアコンを付けてみる。異臭はもうしなかった。
静かな送風の音だけが聞えてくる。送風口からは何も出てこない。
終わった。ようやく…。
こうして、初夏の闇に潜む魔物との恐怖の戦いに幕が下ろされたのであった。